――――よろしくお願いします。
蒸田:こちらこそよろしくお願いします。
――――まずは簡単な自己紹介をお願いします。
蒸田:職業は基本的には造形作家です。立体物を作るのが仕事です。
あとは塗装をしたり、模型の塗装をしたりして、雑誌に載せたりとか、おもちゃ会社に納めたりするのを職業としています。
――――ありがとうございます。そうですね、今回、20代の転機っていう話なんですが。
蒸田:はい。
――――現在のご職業になった時っていうのは大体いつ頃の話ですか。
蒸田:はっきりと始めたのは25、6ですね。うん、25歳とかそのぐらいです。
20代半ばぐらいからはもう完全にこの仕事をずっとやってますね。
――――造形自体はそれ以前から?
蒸田:うん、ちっちゃい時から。元々粘土で物を作るのが好きで。
で、なんか粘土で怪獣とか作るのが好きでした。
あとね、私の父親が美術教師で画家だったのよ。家でいつも絵描いてるから、大人ってそういうもんだって思ってて。絵描いたり物作ったりするのは当たり前のことだと思ってたのはあります。
――――そうだったんですね。では簡単でいいので、今のご職業になるきっかけがあればお願いします。
蒸田:もともとお話を作る人になりたかったんです。物語を作る人になりたくて。でも媒体はなんだかわかんなくて。
とりあえず映画の業界に近づけばなんかそういうことがあるんじゃないかと思って、映画の学校に行ったのね。――――
――――映画の学校ですか。
蒸田:そうそう。映画業界に行ったら、どんな仕事でもできるようにっていう職業訓練校みたいなとこだった。
――――どんなことをしてたんですか?
蒸田:その時は、生徒が1クラスに15人ぐらい居て、その15人の中の全員が監督をやって、残りは全員スタッフになって、映画を3日ぐらいで撮影するっていうのを順繰りでやってくっていうのをやってたよ。
――――造形も?
蒸田:映画学校の時はなんでもやらなきゃいけなかったんで。もちろん自分の撮るものの造形は全部自分でやるし、 基本は脚本も書くし、監督もやるし。カメラだけはちゃんと使えるやつじゃないと撮れないんでカメラは回さないけど、 それ以外のことはほとんどやってたんで、立体物は作ってはいた。
――――なるほど。興味本位で聞きたいんですが、その当時ってデジタルの機材とかって使ってたんですか?
蒸田:全然なかった。何もなかった。
――――そうなんだ。
蒸田:うん。俺が映画学校にいる頃はまだ。あのね、俺が映画学校にいる時に、 1本目のジュラシックパークが公開されて。
で、みんなで見に行って、cgで恐竜見に行って。なんてことだ。もう造形なんかやってる場合じゃないかなってなったね。うん。
――――走り出しの頃だったんですね。
蒸田:そう。デジタルやってる人もいるにはいたけどね。ただ、でも、まだその頃なんていうの。造形物を動かそうと思ったらコマ取りだし。
――――そうか。
蒸田:うん。CGでやろうっていうとやれないことはないんだけど、時間もお金もめちゃめちゃかかるから。日本は特にね。海外はやっとそれが本格化した頃なんだけど、日本はもう全然だったから。アナログもアナログ。だって、デジタルカメラで撮影してないからね。
――――今だと想像つきませんね。
蒸田:フィルムで撮影してたからね。それが当たり前で、編集も全部フィルムを切り張りしてたからね。ビデオでやるとなんかガクガクになってやりたくないから、ビデオの編集はしてなかったし。
カメラマンさんがデジタルカメラを普通に使うようになったのって、2002年とか2003年なんじゃないかな。
――――結構最近に感じますね。
蒸田:で、映画学校にいる間に、バイトで呼ばれて怪獣映画の現場にいったんですよ。
そこでこう、造形の仕事をやってたんだけど、それやりながらも向いてるなとは思ってたけど、やっぱりお話作る方に行きたいなと思ってて。
――――はい。
蒸田:なんか色々試さなきゃなと思いながら、なんかくすぶってたんだけど、その映画の仕事がぱぱったり終わってしまって、突然仕事がなくなっちゃって。――――
蒸田:やることがなくなっちゃって、でも食ってくから、仕方ないからバイトをやってて。コンビニでバイトしてたのね。
――――はい。
蒸田:そうしたら、そこで、そのコンビニの本の売り場にさ、アニメ雑誌があって。それをパラパラパラって暇な時に見てたら、ゲーム会社の募集があって。脚本とかいろんなのできるよって書いてあって、面白いから、よし受けてみようと思って。
俺が物を作ってる写真を送ったら、それ見て面白いって言われて、会社に入れてくれたんです。
――――ちなみに、ゲーム会社に入ってたっていうのは何歳ぐらいの頃ですか。
蒸田:22ぐらいの時。で、大体2年間ぐらい居ました。
でね、会社入ったら、そのゲームを作ってる現場に入ったんだけど。まずはこう、俺が物語を作りたいって話を社長が聞いて、監督とか脚本家の助手をやれって言われて。
――――助手というと、どんなことを?
蒸田:その脚本家の人が自分で全部考えてると作業量が多すぎるから、例えばゲームの中に出てくるモンスターを考えろって言われて、毎週30体モンスターを考えろって言われたりしてました。
本当に30体考えると死んじゃうんで、大体毎週1、2、3体考えて提出して、その中から採用してもらえたら採用してもらってっていうのを半年ぐらいはやってた。
蒸田:で、同時に、ゲームのためにいろんな資料が必要で、その資料を見つけるために、俺、図書館に行ってはいろんな本を見て、いろんな資料を読んだよ。この資料は使えるっていうのは借りてきて、脚本家さんに渡して、使えるかどうか判断してもらって。ダメだったら返してっていうのもやっぱ半年ぐらいずっとやってた。
――――なるほど。
蒸田:うん、そう。ゲーム作るのに知識が必要だからって言って、うん、引き出しをいっぱい作れって言われてたんで。
で、あとはゲームの中の細かいイベント。そういう細かいイベントは考えては提出して、オッケーなら入れてもらえるし、ダメならはねられるっていうのをずっとやってた。
――――脚本家さんの下で働くことが多かったんですね。
蒸田:あと監督の雑用係。絵描きさんとかアニメーターさんがいっぱい関わってて、その人たちが書いたものを回収しなきゃいけないんだけど。
制作進行の人の助手として一緒に受け取りに行って、挨拶して会話をして、原稿をもらってきて、それを整理してっていうのを同時進行で一緒にやってた。
――――ゲーム会社の中では、どんな部署に分かれていたんですか?
蒸田:演出、グラフィッカー、プログラマーの3つに分かれてて、その3つはほぼ交わらない感じ。やれることはみんなやるんだけど。俺はだから、演出より。
――――そうなんだ。
蒸田:ちっちゃい会社だったからね。100人はいなかったんじゃないかな。
――――同じようなことしてたチームの仲間って何人かいたんですか?
蒸田:いたいた。でも、演出助手は俺しかいなくて。演出もやるんだけど、プログラムもやるし、ゲームシステムも考えるっていうのをやってる人と、あとは基本的にはグラフィッカーって人が多くて。
そこでこう、造形の仕事をやってたんだけど、それやりながらも向いてるなとは思ってたけど、やっぱりお話作る方に行きたいなと思ってて。
――――うん、そうなんですね。
蒸田:そうそう。グラフィッカーさんって、その頃ってドット上だから。
――――あ、本当にそうなんだ!
蒸田:そう。キャラクターデザインの絵があって、それを元にドット絵を作ってくっていう作業があって、みんなでそれをやってたからね。
――――当時はやっぱりドットが多かったんですね。
蒸田:自分が関わってるのは完全にまだドット絵の方でしたね。俺が行ってた会社は3Dのゲームも作ってたけど、それは部署が全然違った。
いわゆるゲームデザインをやる人はどっちもできて、どっちもわかってるんだけど、そうじゃない人にとっては完全に違う職業だったかな。
3Dのゲームはお金がかかるのと時間がかかるので、 もちろんみんなそっちでやるべきなんだけど、まだ全部そっちには振り切れないって感じで。多分俺が行ってた会社も3分の2はドットで、残りは3Dでって感じだったんじゃないかな。
――――転機になったことは何かありましたか。
蒸田:あのね、ゲーム会社についたら、ほんとに偶然なんだけど、そこにいた脚本家さんと監督をするイラストレーターさんが、俺が高校の頃に読んでた、すんごい大好きな本を書いた本人たちだったのよ。
――――おお。
蒸田:びっくりして。で、 プラス、一緒にゲーム作ってる人がもう1人アニメの監督。
結構自分もその作品知ってるぐらい有名なアニメの監督の3人がトップで、そこの駒使いみたいな立場になったのね。で、仕事してて楽しくてさ。
で、何が楽しいってさ、その人たちがフリーで仕事をしてるのを見てて、 会社に属さないんだよね。その人たちはね。属さないで仕事やってんのがめちゃめちゃ楽しそうで。何これ、こんな生き方できんだって思って。
で、脚本家の人について脚本とかの勉強してくうちに、俺は向いてねえなって。お話考えるのっていうより、文章書くのとかそういうのは俺の特性としては向いてねえなっていうのがだんだん分かってきて。
なんでもいいからフリーになりたいっていう気持ちが強くなってきてました。 なんかやっぱ造形かなとか思いながら。――――
蒸田:で、ゲーム会社で仕事をしてたんだけど、ある時体を壊しまして、腸の病気になりまして。で、会社を辞めざるを得なくなって、ゲーム会社を辞めたんですよ。3ヶ月ぐらいかな。ぶらぶらしてて。
で、何やろうかと思ってる時に、偶然その、造形の仕事に未曾有の食玩ブームとガチャガチャのブームが来て。商品のクオリティがものすごい上がって、 フィギュアがいっぱいガチャガチャで出るようになった。有名な造形会社がいろんなものを出すようになって、食玩のブームが来て、 本当にね、造形業界に人が足りない状態。
――――ついに造形の話が出てきましたね。
蒸田:そう。そんな時、脚本家の人から自分が作ったゲームで立体物を作ってる斎藤(仮名)さんって人がいるんだけど、そこでアシスタントやらない?って 言われて。
どんなの作ってる人かなと思ったら、作ってるの見たら、ものすごいもの作ってるんで、仕事になるのかなって思いながらも行ったのよ。で、そこでアシスタントをしてたら、なんか仕事になっちゃった。
――――突然の転機ですね。
蒸田:突然でした。なんでもいいから、なんか造形の経験がある人なら誰でもいいからっていう話で行って。まず最初に、斎藤さんから仕事と全然関係ないような立体物を、これを綺麗に仕上げてって言われて渡されたの。それを1週間ぐらいやって、一応仕事ができるやつだとは思ってもらえて。
――――ええ。
蒸田:で、その次ぐらいに、ちょうどその頃、斎藤さんがおもちゃの原型をやってて、それの細かいパーツの仕上げとか、 ちょっとした手首を作るとかっていうのをやってたりとかした。
あとは同時に雑誌の仕事やってて。メインのフィギュアは斎藤さんが作るんだけど、周りの賑やかしのものは俺が勝手に作ってよかったの。んで、プラモデルのパーツとかいろんなもん使って勝手に作ってたら、斎藤さんから、こっちの方が適正がある。あんたこれで食ってった方がいいよって感じのことは言われて。そんなのばっかやってたの。
――――初めはそういうアシスタント的な仕事が多かったんですね。
蒸田:そうだね。あとは、斎藤さんのところにガチャガチャの原型の仕事が来て、 ちっちゃいものを40個ぐらい作んなきゃいけないんだけど、3人か4人しかいなくて。
で、とりあえず俺が20個ぐらい作ったの。それも1週間とか10日とかで、すごいどばーって作って持ってった。あんま出来よくなかったんだけども、向こうも受け取らざるを得ないから笑 で、受け取ってもらえて、 一応使えると思ってもらえて、それからガシャポンの仕事をちょこちょこやってた。
――――個人で仕事を受けるようになったのは?
蒸田:最初はね、斎藤さんがやっている仕事の手伝いだったんだけど、もう打ち合わせ事めんどくさいから、あんた行ってきなよって言われて、おもちゃ会社のとこに1人で。
担当さんと会って話をして、仕事できるか。って言われて。できるかな~と思ったんだけど、できるって言って、受け取ってやったのよ。うん。したら、仕事になった。
――――そうなんですね。
蒸田:基本的にはね、斎藤さんを通して。俺が個人で受けてる仕事ではなくて、あくまでも斎藤チームの1人っていう感じで使ってもらってた感じ。事務所を通してる感じになってた。結果としてね。うん。
――――いつ頃までそういう仕事をしてたんですか?
蒸田:うん、2000年ぐらいまでずっと斎藤さんのとこでやってたんだけど、その頃から出張させられるようになった。他の造形家さんのアシスタントっていうか、小遣いみたいのを時々やることになって。
もうあんたが全部作ってよって感じの時が何度かあってやってたら、出版社の方から、 ある企画がちょっと次の段階になるって話があったの。造形家さんがもう忙しくてやってられなくなっちゃったから、誰かメインで担当になってくれよって話になって。
みんながめんどくさいから、じゃあ蒸田にって言われたから、すっごい不安だったけど、できます。って。 そっからは俺の名前が出るようになって。私の仕事になった。それがね、2003年。
――――それもまた、結構大きな転機ですね。
蒸田:そう――――あとね、思い出した。1個きっかけあったよ。
蒸田:ゲーム会社にいる頃にね、自分の好きなアメコミのキャラクターを作ったの。それをなんとなくそのアニメの監督、自分のボスであるアニメの監督に見せたのよ。したら その人が、なんだおめえ、造形できるじゃねえかよ。これで食ってきゃいいじゃんって言ったの、俺に。そしたら真に受けたの、俺が。
――――なかなかの転機。
蒸田:もう物作れる人で、で、絵めちゃめちゃうまい人だったから、その人にお前これで食えばいいじゃんって軽く言われたのよ。それで、 え、俺食えんのかな。もしかしてやってもいいんじゃねえかなってちょっと思った。
あとちょうどね、同じ頃、おもちゃ業界にね、フィギュアブームが来てたの。ものすごいリアルなフィギアが日本にも輸入されてて、めちゃめちゃ受けてた時期で、そういうものが必要とされてた時期だったのね。それの流れで出版社もそういう変わった造形科のを集めて本を作るとかっていうのが業界的にブームが来てて、そこもなんか流れに乗れたというか。
――――流行。
蒸田:そう。例えばその、妖怪のね、食玩を出すって時に、俺も呼ばれて妖怪を作ってたんだけど。食玩とはいえ、今までだったらコンビニに妖怪みたいな気持ち悪いものは置いてくれなかったんだけど、この時期は本当にブームで、コンビニに置いとくだけでなんでも売れる時期だった。
――――流行に上手く乗ってチャンスをつかんでますね。
蒸田:そうだね。
――――20代の頃の経験で、今に活きてることってありますか?
蒸田:映画学校の時は、映画の現場を経験したんで、 なんだろう、道理が通らないことがあるというのを経験したので。今で言うと、ブラックな状況が当たり前だったから、それに対応できない人間は仕事ができないって思ってたから、それが身についた。
映画学校にいる時は、寝ないとか、どこでも寝れるとか、家に帰らないとか。うん、そういうのが当たり前だと思ってたから、未だに。でも、それが、役には立ってる。無茶できるっていう。
――――ええ。
蒸田:こういうのってね、今の人に言っても意味がねえとは思うんだけど。あと、締め切りを守る。
――――ああ。
蒸田:ゲーム会社にいる時に上の人から、これから1週間でモンスター30個考えろって言われるじゃない。 したらほんとに30個全部考えてもいいんだけど、 最低でも何個出せば許してもらえるとかがわかるじゃない。うん。
その代わり、0は絶対許されないっていう。その日に日付を決められたら、それまでに100出せなくても、何%か出せればなんとかなるってわかったけど、0をやったら二度と何も来なくなるっていうのがわかった。んで、締め切りって怖い、大事っていうのは身についた。
――――大事ですね。
蒸田:あと、守れない時はどうやってごまかすかは一生懸命考えなきゃダメ。納得させる何かを用意する、 そのための代わりのものを持ってくとかね。いろんなことはやれるようになんないとダメだよね。
だからせめてどんなことでも10パーぐらいは手が出せるように準備しとく。
連帯責任になるから、どうしても。 全員がなんとかしなきゃいけなくなるじゃない。それが何より怖いから。
蒸田:あと、あれだよね、その時の経験でできるかできないかってのが迫られるわけですよ。これ、あんた、できる。って。いや、できないですって言うとそこで終わるじゃん。
――――うんうん。
蒸田:できるかって言われたら、一瞬迷うけど、できます。ってとりあえず言うっていうのは、その頃に身についたんじゃない。そう言ったから、なんとかする。
言った以上はやらなきゃいけないから。できないって最初に言っちゃうと、2度と振ってもらえないのよ。でも、やれるって言ったけど間に合わなかった時とかめちゃくちゃ怒られるし、誰かに迷惑はかけちゃうんだけど、やった分は認めてくれて、次も仕事くれる、次もやらせてくれんのよ。っていう感じの雰囲気はあったね。今だと嘘みたいな話でしょ。
――――確かに。
蒸田:やれるか聞かれた時は、やれるって答えないとダメ。詳しいことは言えないんだけど、どう。やれる。って聞かれて、 やれますって言うと、思っても見ない人と出会えたりするんだよね。
とりあえず飛び込もうっていう。そういうの大事だよね。
――――胸に刻んでおきます。今日は貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。
蒸田:こちらこそ、ありがとうございました。